Tuesday, June 22, 2010
砂漠日記⑩
-音楽の授業-
午後に全学年を一つの教室に集め、民謡(音楽)の授業が行われるということで参加させてもらった。教室の壁際には男子と女子が分かれ、中央で先生がギターの調律をしていた。これからぼくに、ボリビアの様々な民謡を聴かせてくれるという。
民謡の授業の様子。ボリビアは自国のとても特有な音楽がたくさんある。
発声練習をしたあと、先生の合図で最初はスペイン語のボリビアンフォークロリックを歌いはじめた。ズッチャッチャ、ズッチャッチャというテンポのいいギターをリズムに、女子がメインのコーラスを歌う。彼女たちの歌声は、さきほど無邪気な顔をした高校生からは想像もつかないほど高く、力強い声であった。
ぼくは写真を撮るのをやめ、カメラをバッグにしまうことにした。これは画像にではなく、記憶に留めておくほうがいいと思った。
ここボリビア一帯の民族の言葉であるケチュアの歌も歌ってくれた。この歌は男子がメロディーを歌い、歌の節に、女子が裏声を入れてゆく、男女の掛け合いのような歌であった。さすがにケチュア語の歌詞の内容はわからなかったが、そのやりとりからはきっと、ここアンデスでの男女の物語りではないかということが想像できた。
リズムのよい歌では、女子も男子も足ぶみをするように踊り、歌とそのリズムを楽しんでいた。
ラテンアメリカを旅して感じること。それは、ここの人々から音楽と踊りを切り離して考えることは出来ないということであった。踊りはコミュニケーションのひとつであり、老若男女問わず、みな空気を吸うが如く何かしら踊れる。そしてここボリビアも例外ではなく、音を聴くと体をうまく低い音に合わせ、体の芯をゆすりはじめる。体が固く、リズム感の悪いぼくにはなんともうらやましい感覚である。日本もアジアも、もちろん踊りの文化はあるが、ここラテンアメリカの音楽に対する姿勢はアジア文化圏のそれよりも能動性が強く、より積極的である。音に対してけっして受身ではない。
音楽と踊りについて考えると、キューバの記憶が瞭然とよみがえってくる。
5月1日のメイデイの日。ぼくは、キューバのシエンフエゴスという海辺の町に滞在していた。「労働者の日」はこの国では一大イベントで、お昼頃から公園に屋台が並び、多くの人で賑わいをみせていた。(この日は特別、トラックでビールの配給をしているのが印象的だった。)
夕方になると人々は大音量のスピーカーに響くサルサのリズムにひかれ、何千という人が、面積の割りに外套の少ない革命記念公園に集まってきた。そして、知らず知らずの間に、男は女の手をとりサルサを踊りはじめている。黒人もメスティソも白人も暗闇の中で軽快なステップを刻み、それはまるで生き物同士の純粋な会話のようにさえ見えた。
どれくらいの時間が経ってからだったろう。大音量のスピーカーから「バチン」というはじける音がして、音楽が止まってしまった。 闇は人のざわめき以外の全ての音を吸収し、寂寞をさらしていた。音楽がなくなり、祭は終わってしまうのかなと思った。高い石塀の上でキューバ人とビールを飲んでいたぼくは、コップを干して帰ろうとすると、人々の踊りがまだ続いている事に気付いた。 そして、耳をすますと、闇の奥から湧きたつようなサルサの歌声が聞こえてくる。それは、この公園で踊る何千という人の歌声であった。人々は自らの歌声で、途切れてしまった歌を繋ぎ、サルサを踊り続けていたのである。
この時までぼくは、ラテンアメリカの人々がどれほど音楽と踊りが好きか、ということをまったく理解していなかったように思う。
そして、場所は違えど、ここボリビアの砂漠の小さな村でも、同じように音楽と共に生きる人々に出会えた。たった1時間の音楽の授業であったが、キューバのあの時のように、何か人間の熱い根底に触れたような、そんな気がしてならなかった。
つづく
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