Monday, June 28, 2010

Uyuni 2

せっかくウユニへ来たので、ウユニ塩湖へ行ってみようと思った。久し振りの観光。 ツアー会社へ行って、明日のツアーに参加する旨を伝え、支払いを終らせる。塩湖は真っ白なのでサングラスがないと目がやられてしまうということなのでサングラスを近くのメガネ屋さんで購入。250円。 その後、この日は1日町をブラブラと散歩してみた。町の中心の方で少しにぎやかな所があったので足を運んでみると、バスケットコートで町内ママさんバスケ大会が行われていた。 前回ボリビアに来た時も、ママさんサッカーをみたが、ボリビアは女性のスポーツが盛んなのかもしれない。 プレーヤーの家族が応援に来ていた。 同じチームにおばちゃんと若い人がまざってプレーしている。なんと途中、お母さんのような人が子供のオシメを取り替えるために選手交代していた。 大会の商品はやはり生活用品。フライパンや鍋、布団など。 たくましいおばちゃん。 このお二人、結構お年を召しているのでは。 ボリビアも女性が元気だ。

Sunday, June 27, 2010

Uyuni

アロタからバスで5時間。ウユニの町に着く。ここはウユニ塩湖へ行く為の観光拠点の町で、外国からの観光客が多い。町の中心に、ツアー会社や外国人用のバックパッカー宿がいくつかあり、アロタのような集落から来るとなんだか大きな町に来たなあと思えてしまう。(といっても端から端まで歩いて行けるくらいの小さな町だが) 町に着いて市場の食堂に食べに行くと、ボリビア人特有の疑い深い視線を感じる。彼らはとてもシャイで、ラテンアメリカの人とは思えないほど無愛想だ。店員にいくら笑っても反応が悪い。こっちの近づこうとする笑みと、彼らの遠ざけようとする笑みでいっこうに距離が縮まらない。 アロタの家族のみんなも、最初出会った日はそんな感じだった。だが4~5日一緒に生活をしたり、同じ店に何度も通ったりしていると次第に気を許してくれ、話してくれたり、いい笑顔をみせてくれたりする。 ウユニの町(中心)。 マーケットの様子。 南米の地図を眺めていると、ボリビアは下にチリとアルゼンチン、右にブラジルと個性の強い大国に囲まれている。南米の国の中ではけして目立つ事のない日陰の国であるが、ぼくはどうもこういう国が好きになってしまう。(パラグアイにいたときも同じことを感じた。)ブラジルやアルゼンチンと比べると地味で田舎の国で、まったくといっていいほど洗練されていないが、しかしこの粗雑な感じになんともいえない味がある。 多分ぼくが判官びいきなだけなのかもしれないが、いつも弱っちい国をどうしても贔屓目にみてしまうのである。

Friday, June 25, 2010

砂漠日記⑪

アロタともお別れの時がきた。 朝起きて、マリアさんたちにこの日旅立つことを伝えると、最後に美味しいお昼ご飯を作ってあげるから食べて行きなさいと言ってくれた。 セシルさんはリャマの牧畜もしていて、その一頭の子供リャマを殺して、わざわざぼくに食べさせてくれた。砂漠でのタンパク質は超貴重品だ。 セシルさん、マリアさん、ジョナサンと最後のお昼ゴハン。みんななんていい顔してるんだろう。 清算をしようと思い、マリアさんにお金を持っていくと、「息子に英語を教えてくれたし、楽しかったからお金なんかいらないわ」という。それはいけないと言って、お願いだから受け取ってくださいというと、「じゃあ宿泊代だけね」、といってゆずらない。朝昼晩毎日一週間食べさせてもらってきたので、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 家族のみんなに別れをつげ、ウユニの町まで行く1日一本のバスに乗る。すると、後ろに座っていたおじさんが、「子供たちが、外であんたに何か言ってるよ」と教えてくれた。学校の子供たちがお別れを言いに来てくれていた。 ぼくが、窓を開けて「みんなに会えてよかった!元気でね!」と言うと、みんなは気持ちのいい笑顔で「アディオース!」と手を振ってくれた。 この村に来て、本当によかった。

Tuesday, June 22, 2010

砂漠日記⑩

-音楽の授業- 午後に全学年を一つの教室に集め、民謡(音楽)の授業が行われるということで参加させてもらった。教室の壁際には男子と女子が分かれ、中央で先生がギターの調律をしていた。これからぼくに、ボリビアの様々な民謡を聴かせてくれるという。 民謡の授業の様子。ボリビアは自国のとても特有な音楽がたくさんある。 発声練習をしたあと、先生の合図で最初はスペイン語のボリビアンフォークロリックを歌いはじめた。ズッチャッチャ、ズッチャッチャというテンポのいいギターをリズムに、女子がメインのコーラスを歌う。彼女たちの歌声は、さきほど無邪気な顔をした高校生からは想像もつかないほど高く、力強い声であった。 ぼくは写真を撮るのをやめ、カメラをバッグにしまうことにした。これは画像にではなく、記憶に留めておくほうがいいと思った。 ここボリビア一帯の民族の言葉であるケチュアの歌も歌ってくれた。この歌は男子がメロディーを歌い、歌の節に、女子が裏声を入れてゆく、男女の掛け合いのような歌であった。さすがにケチュア語の歌詞の内容はわからなかったが、そのやりとりからはきっと、ここアンデスでの男女の物語りではないかということが想像できた。 リズムのよい歌では、女子も男子も足ぶみをするように踊り、歌とそのリズムを楽しんでいた。 ラテンアメリカを旅して感じること。それは、ここの人々から音楽と踊りを切り離して考えることは出来ないということであった。踊りはコミュニケーションのひとつであり、老若男女問わず、みな空気を吸うが如く何かしら踊れる。そしてここボリビアも例外ではなく、音を聴くと体をうまく低い音に合わせ、体の芯をゆすりはじめる。体が固く、リズム感の悪いぼくにはなんともうらやましい感覚である。日本もアジアも、もちろん踊りの文化はあるが、ここラテンアメリカの音楽に対する姿勢はアジア文化圏のそれよりも能動性が強く、より積極的である。音に対してけっして受身ではない。 音楽と踊りについて考えると、キューバの記憶が瞭然とよみがえってくる。 5月1日のメイデイの日。ぼくは、キューバのシエンフエゴスという海辺の町に滞在していた。「労働者の日」はこの国では一大イベントで、お昼頃から公園に屋台が並び、多くの人で賑わいをみせていた。(この日は特別、トラックでビールの配給をしているのが印象的だった。) 夕方になると人々は大音量のスピーカーに響くサルサのリズムにひかれ、何千という人が、面積の割りに外套の少ない革命記念公園に集まってきた。そして、知らず知らずの間に、男は女の手をとりサルサを踊りはじめている。黒人もメスティソも白人も暗闇の中で軽快なステップを刻み、それはまるで生き物同士の純粋な会話のようにさえ見えた。 どれくらいの時間が経ってからだったろう。大音量のスピーカーから「バチン」というはじける音がして、音楽が止まってしまった。 闇は人のざわめき以外の全ての音を吸収し、寂寞をさらしていた。音楽がなくなり、祭は終わってしまうのかなと思った。高い石塀の上でキューバ人とビールを飲んでいたぼくは、コップを干して帰ろうとすると、人々の踊りがまだ続いている事に気付いた。 そして、耳をすますと、闇の奥から湧きたつようなサルサの歌声が聞こえてくる。それは、この公園で踊る何千という人の歌声であった。人々は自らの歌声で、途切れてしまった歌を繋ぎ、サルサを踊り続けていたのである。  この時までぼくは、ラテンアメリカの人々がどれほど音楽と踊りが好きか、ということをまったく理解していなかったように思う。 そして、場所は違えど、ここボリビアの砂漠の小さな村でも、同じように音楽と共に生きる人々に出会えた。たった1時間の音楽の授業であったが、キューバのあの時のように、何か人間の熱い根底に触れたような、そんな気がしてならなかった。 つづく

Monday, June 21, 2010

砂漠日記⑨

この日は宿から徒歩3分の高校を訪れる。昨年できたばかりの新しい高校で、その前までは小中学校の敷地内で、勉強していたという。 朝学校を訪れてみると、校長先生が門を開けていた。「きみ、この前小中学校に遊びに行った日本からの旅人だね?こんな田舎に外国人はほとんど来ないから、もう村中が君の事を知っているよ。今日はうちの学校に遊びに来たんでしょ?どうぞ、たくさんみんなと遊んでいってください。」と挨拶してくれた。 ボリビアは初等教育が6歳からの8年間、中等教育(日本でいう高校)は4年間となっている。 アロタの高校。まだ新しい。 朝8時になると、生徒達が来はじめた。 やはり電気がないので発電機を使っている。 朝の朝礼は高校生も一緒。 高校2年生の英語の授業。 英語の動詞の活用を勉強していた。英語はスペイン語圏の人にも発音が難しいようだ。 休み時間の高校生達。みんな卒業したらどうするの?と質問すると、多くは大学へ行くお金を貯めるために、まず町へ出て働くと言っていた。 高校4年生の授業。 同じクラスの子たち。 アロタの体操着。バレーボールのチームのユニと併用している。 スペイン語の授業。 高校3年生の授業。 右は英語とコンピューターの先生。左は保健体育と音楽とスペイン語の先生。 女子の体育の授業。最初はランニングと筋トレでスタート。 ボリビアで女子の一番人気のスポーツはバレーボール。みんな小さいけどうまかった。 男子の体育は砂漠でサッカー。ラインが描かれていないので、フィールドを無限に使える。 ゴールもポストがあるだけのシンプルなもの。でもサッカーはそれだけで充分。どこでもいつでもできるから世界で最も人気のスポーツなのだろう。 お昼休みのアロタの村。子供たちはお昼ゴハンを食べに家へと帰ってゆく。 商店に行ってみると、お小遣いを持った子供たちが駄菓子を買っていた。ちなみにここは、高校で会った子のお店だった。 お昼はマリアさんがジャガイモパスタをつくっておいてくれた。やっぱり人に作ってもらうと美味しいなあ。 お昼休みは高校生選抜VS小中高の先生チーム。 お母さんが先生の幼稚園生も応援に来ていた。 お昼休みが終るともう一度みんなで整列。 午後はコンピューターの授業。だったが、途中発電するガソリンが切れてしまい、電気がなくなってしまった。残りの時間は予習になった。 高校1年生のクラスの子がボリビアのポップソングを歌ってくれた。 つづく

Saturday, June 19, 2010

砂漠日記⑧

やはり、この日も朝早く目が覚めてしまい、早朝の散歩に出かける。風がなく、空は青空が広がっていた。宿に戻り、朝6時半に朝食をとる。冬の間は、朝寒すぎて水道の水が凍ってしまう。よって、マリアさんとセシルさんが大きな桶やバケツに水をためて、凍らないように自分達の部屋に置き、朝ごはんの時にすぐに水を使えるようにしている。 朝9時過ぎにプップーというトラックの音が聞こえた。何かと聞くと、食べ物や生活品を売る商人のトラックだという。この砂漠の村にはスーパーがないので、彼ら商人たちが売りに来るこのタイミングが非常に大切だ。小さな売店がいくつかあるが、ものが少なく、どうしても割高になってしまう。 たくさんの人が食料品や洋服、電気製品などを求めて集まっていた。 商人達は、どれくらいの頻度で来るかがわからない。よって村人達はトマトやジャガイモ、卵、パスタ、米を何十キロという単位で買っていく。ちなみにお米は一キロ約40円。10キロ買うと350円だった。 全ての品が量り売り。ズタ袋いっぱいにして、リヤカーに積んでゆく。 超貴重品のフルーツ。オレンジやリンゴ、バナナなどが売られていた。 ぼくも卵3つにトマト2つ、ジャガイモ3つ、リンゴ3つ、バナナ一房を買った。 砂漠にいると、食べ物の有難さを日々痛感する。 つづく

砂漠日記⑦

ボリビアの学校は給食が出ないため、お昼になると一度解散して自分たちの家で昼食をとる。みんなお腹がすいているようで、なんだかソワソワしている。 チリの学校は朝食、昼食を給食として提供していたが、ボリビアは事情が少し違う。先生たちはいつかチリのような制度になればいいのに、と言っていた。若い教育実習の先生が、パリッとしたスーツを着ている。 お腹空いた~、といって家へと走っていく。この子はよく食べそうだ。 お昼時になると、お天道様も高い位置にのぼり、だいぶ暖かくなる。 ぼくも宿に戻り、お湯を沸かしてもらって、チリで買いだめしておいたインスタントラーメンを食べる。(卵入り) お昼休みは、中学生たちとバレーボールをして遊んだ。 標高が高く、砂漠の太陽は強いので、みな休み時間の間は日焼け止めをぬり、帽子をかぶっていた。 休み時間に教室へ行ってみると、ノートに漫画を描いている子がいた。よくみるとドラゴンボールの孫悟空。 小学校5年生の授業。 午後の授業。小学2年生の社会の授業。ボリビアの国について学んでいた。 何故かこの教室には犬がいた。 午後の授業が終ると、もう一度みんなで整列。 「夜は、電気があるうちに宿題や復習をしてください。できない時は、朝早く起きて次の日の勉強の準備をしてください」、と伝える先生。 それでは、さようなら、と挨拶をしたあとはみんなすぐに遊ぶために走って家へ帰る。 学校が終ると、みんなの顔は遊びモード。「一緒に遊ぼう?」とたくさんの子供が寄ってくる。 帰り道に、お菓子のオマケで遊ぶ子供。 この日は、暗くなるギリギリの時間まで子供たちとサッカーをした。 つづく