Monday, July 5, 2010

Potosi

ウユニをバスで6時間ほど北上し、ポトシという町に来る。ここは鉱山で栄えている町で、ツアーに参加すれば炭鉱を訪れることができる。この町、なんと標高4000mの高さにある。 山々に囲まれ、坂の斜面に町がある。標高が高いので、空気が薄く、頭が少し痛い。 ポトシの町の中心。坂を歩いていると息がかなりきれる。 この日は何故かパレードをやっていた。 小学生達もパレードで踊っていた。 町はわりとコロニアル。最近は小さいデジカメのほうで写真を撮っている。 豚の丸揚げも。パンにはさんでいただいたら、豚がトロトロで美味しかった。 この町でハマって、ほぼ毎日食べていた「シルパンチョ」という料理。薄いお肉をカツのようにして野菜サラダとお米とジャガイモの煮たのの上に目玉焼きが一緒に乗っかってくる大人のお子様ランチ。一皿80円。 味覚がお子ちゃまのぼくにはたまらない。

Saturday, July 3, 2010

Uyuni salt flat 2

朝の5時に寒さで目が覚めた。毛布にくるまって外に出てみると、空がいい色だったので少し遠くまで歩いてみることに。 どこまでも淡い空と塩の大地が続いていた。 朝の5時半。 地面の6角形の模様がどこまで続いている。 1時間歩いてもほとんど景色が変わらない。朝の6時過ぎの様子。 朝ごはんを食べて、管理人の二人と写真で遊んでみた。ここだとこんな写真が撮れる。 お昼には、車で塩湖の反対側にある小さなCocuezaという村とサボテンがたくさんはえている塩湖の中の"島"を訪れる。 Cocuezaの村。石を積み上げた壁がどこまでも続く。 村の中心の小さな教会。 人口80人程度の村。宿も一軒ある。 村から車で1時間ほどでサボテンだらけの島に着く。2時間ほど歩いて島を散策。 雨期に降る雨のおかげでサボテンはいきていける。なんと1000歳のサボテンもあった。 車があんなに小さくみえる。 この日は夕方の6時にウユニの町に戻る。 頭の中にずっと大きな景色が残っていて、宿にいてもしばらくボウっとしていた。

Friday, July 2, 2010

Uyuni salt flat 1

ウユニ塩湖へ、塩の世界を見にいく。 夜は塩でできたホテルに一泊。 ウユニ塩湖へ行く途中に休憩した小さな村。塩の平原まであと少しのところにある。この村から電車でボリビア国内に塩を運ぶ。 ここもアロタに似た、小さな村だ。 ウユニでは塩が余るほどあるので、国内向けに売っている。海外へは、ここ近年価格が安くなりすぎて、販売はやめてしまったようだ。 こんなジープに乗って移動。ウユニ国立公園。 見渡す限り塩。この時期(乾季)は塩が結晶化して、地面に6角形の模様ができている。 歩くと、ガリガリ、ガリガリと気持ちのいい音がする。 どうしてもこれがやりたかったので、ウユニの宿で卵を茹でてきた。塩つけ放題。 遠くに見えるのが今日泊まる塩の宿。一泊のツアーはぼくだけだったので、ぼくだけここで降りる。 この日はずっと歩いたり、塩の模様を眺めていた。 遠くに二つの点がみえてから約1時間。オランダ人二人がバイクで近づいてきた。なんだか、久し振りに人に会ったような気がした。 いい旅してるなあ。 日が沈みはじめると、急に温度が下がり、空気が冷たくなる。 塩の宿。屋根と窓以外は全部塩でできていた。 この日は日が暮れるまでずっと外にいた。夕方でこの寒さだ。朝方はマイナス10℃はいくだろう。手袋をしても指が悴んでいて動かない。 宿の管理人さん二人。三人で毛布にくるまって夜は星を眺めた。流れ星をたくさんみれた。 塩のホテルのぼくの部屋。お客はぼくだけだった。電気がないのでロウソクで部屋をともす。 夜は凍てつくような寒さ。 持っている洋服全てを着込み、毛布も4重にしてくるまるようにして寝た。

Monday, June 28, 2010

Uyuni 2

せっかくウユニへ来たので、ウユニ塩湖へ行ってみようと思った。久し振りの観光。 ツアー会社へ行って、明日のツアーに参加する旨を伝え、支払いを終らせる。塩湖は真っ白なのでサングラスがないと目がやられてしまうということなのでサングラスを近くのメガネ屋さんで購入。250円。 その後、この日は1日町をブラブラと散歩してみた。町の中心の方で少しにぎやかな所があったので足を運んでみると、バスケットコートで町内ママさんバスケ大会が行われていた。 前回ボリビアに来た時も、ママさんサッカーをみたが、ボリビアは女性のスポーツが盛んなのかもしれない。 プレーヤーの家族が応援に来ていた。 同じチームにおばちゃんと若い人がまざってプレーしている。なんと途中、お母さんのような人が子供のオシメを取り替えるために選手交代していた。 大会の商品はやはり生活用品。フライパンや鍋、布団など。 たくましいおばちゃん。 このお二人、結構お年を召しているのでは。 ボリビアも女性が元気だ。

Sunday, June 27, 2010

Uyuni

アロタからバスで5時間。ウユニの町に着く。ここはウユニ塩湖へ行く為の観光拠点の町で、外国からの観光客が多い。町の中心に、ツアー会社や外国人用のバックパッカー宿がいくつかあり、アロタのような集落から来るとなんだか大きな町に来たなあと思えてしまう。(といっても端から端まで歩いて行けるくらいの小さな町だが) 町に着いて市場の食堂に食べに行くと、ボリビア人特有の疑い深い視線を感じる。彼らはとてもシャイで、ラテンアメリカの人とは思えないほど無愛想だ。店員にいくら笑っても反応が悪い。こっちの近づこうとする笑みと、彼らの遠ざけようとする笑みでいっこうに距離が縮まらない。 アロタの家族のみんなも、最初出会った日はそんな感じだった。だが4~5日一緒に生活をしたり、同じ店に何度も通ったりしていると次第に気を許してくれ、話してくれたり、いい笑顔をみせてくれたりする。 ウユニの町(中心)。 マーケットの様子。 南米の地図を眺めていると、ボリビアは下にチリとアルゼンチン、右にブラジルと個性の強い大国に囲まれている。南米の国の中ではけして目立つ事のない日陰の国であるが、ぼくはどうもこういう国が好きになってしまう。(パラグアイにいたときも同じことを感じた。)ブラジルやアルゼンチンと比べると地味で田舎の国で、まったくといっていいほど洗練されていないが、しかしこの粗雑な感じになんともいえない味がある。 多分ぼくが判官びいきなだけなのかもしれないが、いつも弱っちい国をどうしても贔屓目にみてしまうのである。

Friday, June 25, 2010

砂漠日記⑪

アロタともお別れの時がきた。 朝起きて、マリアさんたちにこの日旅立つことを伝えると、最後に美味しいお昼ご飯を作ってあげるから食べて行きなさいと言ってくれた。 セシルさんはリャマの牧畜もしていて、その一頭の子供リャマを殺して、わざわざぼくに食べさせてくれた。砂漠でのタンパク質は超貴重品だ。 セシルさん、マリアさん、ジョナサンと最後のお昼ゴハン。みんななんていい顔してるんだろう。 清算をしようと思い、マリアさんにお金を持っていくと、「息子に英語を教えてくれたし、楽しかったからお金なんかいらないわ」という。それはいけないと言って、お願いだから受け取ってくださいというと、「じゃあ宿泊代だけね」、といってゆずらない。朝昼晩毎日一週間食べさせてもらってきたので、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 家族のみんなに別れをつげ、ウユニの町まで行く1日一本のバスに乗る。すると、後ろに座っていたおじさんが、「子供たちが、外であんたに何か言ってるよ」と教えてくれた。学校の子供たちがお別れを言いに来てくれていた。 ぼくが、窓を開けて「みんなに会えてよかった!元気でね!」と言うと、みんなは気持ちのいい笑顔で「アディオース!」と手を振ってくれた。 この村に来て、本当によかった。

Tuesday, June 22, 2010

砂漠日記⑩

-音楽の授業- 午後に全学年を一つの教室に集め、民謡(音楽)の授業が行われるということで参加させてもらった。教室の壁際には男子と女子が分かれ、中央で先生がギターの調律をしていた。これからぼくに、ボリビアの様々な民謡を聴かせてくれるという。 民謡の授業の様子。ボリビアは自国のとても特有な音楽がたくさんある。 発声練習をしたあと、先生の合図で最初はスペイン語のボリビアンフォークロリックを歌いはじめた。ズッチャッチャ、ズッチャッチャというテンポのいいギターをリズムに、女子がメインのコーラスを歌う。彼女たちの歌声は、さきほど無邪気な顔をした高校生からは想像もつかないほど高く、力強い声であった。 ぼくは写真を撮るのをやめ、カメラをバッグにしまうことにした。これは画像にではなく、記憶に留めておくほうがいいと思った。 ここボリビア一帯の民族の言葉であるケチュアの歌も歌ってくれた。この歌は男子がメロディーを歌い、歌の節に、女子が裏声を入れてゆく、男女の掛け合いのような歌であった。さすがにケチュア語の歌詞の内容はわからなかったが、そのやりとりからはきっと、ここアンデスでの男女の物語りではないかということが想像できた。 リズムのよい歌では、女子も男子も足ぶみをするように踊り、歌とそのリズムを楽しんでいた。 ラテンアメリカを旅して感じること。それは、ここの人々から音楽と踊りを切り離して考えることは出来ないということであった。踊りはコミュニケーションのひとつであり、老若男女問わず、みな空気を吸うが如く何かしら踊れる。そしてここボリビアも例外ではなく、音を聴くと体をうまく低い音に合わせ、体の芯をゆすりはじめる。体が固く、リズム感の悪いぼくにはなんともうらやましい感覚である。日本もアジアも、もちろん踊りの文化はあるが、ここラテンアメリカの音楽に対する姿勢はアジア文化圏のそれよりも能動性が強く、より積極的である。音に対してけっして受身ではない。 音楽と踊りについて考えると、キューバの記憶が瞭然とよみがえってくる。 5月1日のメイデイの日。ぼくは、キューバのシエンフエゴスという海辺の町に滞在していた。「労働者の日」はこの国では一大イベントで、お昼頃から公園に屋台が並び、多くの人で賑わいをみせていた。(この日は特別、トラックでビールの配給をしているのが印象的だった。) 夕方になると人々は大音量のスピーカーに響くサルサのリズムにひかれ、何千という人が、面積の割りに外套の少ない革命記念公園に集まってきた。そして、知らず知らずの間に、男は女の手をとりサルサを踊りはじめている。黒人もメスティソも白人も暗闇の中で軽快なステップを刻み、それはまるで生き物同士の純粋な会話のようにさえ見えた。 どれくらいの時間が経ってからだったろう。大音量のスピーカーから「バチン」というはじける音がして、音楽が止まってしまった。 闇は人のざわめき以外の全ての音を吸収し、寂寞をさらしていた。音楽がなくなり、祭は終わってしまうのかなと思った。高い石塀の上でキューバ人とビールを飲んでいたぼくは、コップを干して帰ろうとすると、人々の踊りがまだ続いている事に気付いた。 そして、耳をすますと、闇の奥から湧きたつようなサルサの歌声が聞こえてくる。それは、この公園で踊る何千という人の歌声であった。人々は自らの歌声で、途切れてしまった歌を繋ぎ、サルサを踊り続けていたのである。  この時までぼくは、ラテンアメリカの人々がどれほど音楽と踊りが好きか、ということをまったく理解していなかったように思う。 そして、場所は違えど、ここボリビアの砂漠の小さな村でも、同じように音楽と共に生きる人々に出会えた。たった1時間の音楽の授業であったが、キューバのあの時のように、何か人間の熱い根底に触れたような、そんな気がしてならなかった。 つづく