Sunday, April 22, 2012

IN PATAGONIA ②

久しぶりに、紀行文を読んで衝撃を受けた。ケロアックの「オン・ザ・ロード」以来だと思う。深い視点での旅がテンポよく進んでゆくのが心地よく、いつまでも終わらないでほしいと、惜しみ惜しみ少しずつ読んできたが、とうとう終わってしまった・・・。

これはパタゴニア最南端の原住民とイギリス人宣教師についての興味深い記述だ。

「トーマス・ブリッジズは小柄ながら姿勢がよく、神の摂理を信じ、危険を恐れぬ人物だった。孤児だったトーマスはパタゴニア伝道協会の書記をやっていたジョージ・パッケンハム・デスパードというノッティンガムシャー州の聖職者の養子になった。

(略)・・・若きトーマス・ブリッジは、ジョージ・オッココという名のインディオのそばに座って、辛抱強く耳を傾け、ダーウィンが聴く耳を持たなかったヤガン語を習得していった。自分でも驚いたことに、彼は、このような『原始的』な人々が持っていようとはだれも予想しなかった複雑な言語構造や語彙を明らかにしていった。十八歳で彼は辞書をつくることを決心した。辞書があれば『彼らと話ができ、彼らにキリストの愛を教えることもできるだろう』と考えたのである。この途方もない作業は、彼が死を迎える一八九八年にようやく完了した。ヤガン語の独特な表現が失われる前に、彼は三万二千語の言葉を集めた。

(略)・・・私は大英博物館でブリッジズの手書き原稿を手に取ってみたことがある。

(略)・・・ヤガン語の迷宮の中で、彼が福音書の抽象概念をあらわす言葉を見つけることに絶望したことをわれわれは知っている。

(略)・・・ブリッジズのジレンマはよくあるものである。『原始的』言語の中に道徳観念を表す言葉が見出せないとき、多くの人はそのような概念は存在しないものと見なす。しかし『良い』とか『美しい』といった西洋思想におけるもっとも本質的な概念は、具体的な事物に根差していないかぎり意味をなさない。初めて言葉を使った者はまず周辺にある素材に名前をつけ、それから抽象的な概念を示唆するためにそれを暗喩に変換した。ヤガン語、そしておそらくあらゆる言語は航行システムのような展開をする。事物に名前をつけることは位置を定めることである。それらを並べたり比較したりすることで、話し手はそれが次にどうなるかということを示す。ブリッジズがヤガン語の暗喩の領域にまで踏み込んでいたなら、彼の仕事はけっして完了することがなかっただろう。この辞書にのこされたものだけでも、彼らの知性を充分推し測ることができる。

『単調さ』という言葉を『男友達がいないこと』と定義する人々を、われわれはどうとらえたらよいのだろうか。また『意気消沈』という言葉を、カニがもっとも傷つけられやすい季節、つまり古い殻を脱皮して新しい殻ができるのを待っている時期とむすびつけるような人々を、どう考えたらよいのだろうか。

ここにはいくつかのヤガン語の同義語を挙げてみよう。

みぞれ-魚のうろこ
ニシンの群れ-粘液
目の前の小道に落ちて行く手をふさぐからみ合った木の枝-しゃっくり
燃料ー燃えるものー癌
季節外れのムラサキガイ-皺くちゃの皮膚-老年

ヤガン語の連想には私の理解を超えるものがある。

オットセイ-殺された人の親類

(略)・・・ヤガン語では動詞が重要な位置を占めている。筋肉のあらゆる動き、自然や人間のあらゆる動きをとらえるために、ヤガン族はドラマティックな動詞を使った。イーヤという動詞は『カヌーをひらひらした海草につなぐ』ということを意味する。オーカンは『水にたゆたうカヌーで眠る』ことだ。(これは小屋の中で浜辺で、または妻のかたわらで眠るということとは全然違う)。ウコーモナは『特にどれとめざすことなく魚の群れにモリを投げること』、ウェイナは『壊れた骨やナイフの刃のようにだらしないこと、または簡単に動くこと』『浮浪者や迷子のようにさまよい歩くこと』(略)・・・となっている。

(略)・・・ヤガン族は生まれながらの放浪者だった(略)・・・『彼らは落ち着きのない渡り鳥のようなものだ。移動しているときのみ、彼らは幸福と心の平安を感じるのである』 また彼らの言葉には船乗り特有の時間と空間に対する執着が現れている。というのも、五つまで数えることもできなかったにもかかわらず、彼らは高い精度で基本方位を定義し、季節の変化から正確な時を知っていたからである。たとえば次のようなものがある。

イウ―アン-若いカニの季節(親が腹に子を抱えているとき)
ウーイーウーア-子を巣立たせる季節(『噛むのをやめる』という動詞から)
ハクーレウム-樹皮がゆるみ樹液が上がってくる
セカナ-カヌーづくりの季節、シギが鳴き交わす季節(セクセクという音はシギの声と、カヌー職人がブナの樹皮を幹から剥がすときの音を真似たものである)

トーマス・ブリッジズはヤガという地名からヤガンという言葉を作りだした。インディオ自身は自分たちのことをヤマナと呼んでいる。動詞として使われる場合、ヤマナには『生きる、息をする、幸福である、病気から回復する、正気である』などの意味がある。名詞として使われる場合には動物に対しての『人間』という意味になる。接尾語がついて手という意味になると、ヤマナは人間の手、つまり死をもたらす爪に対して、友情の中で差し延べられる手ということになる。」(Chatwin 1977、210-215)


No comments: