Wednesday, March 31, 2010
Photos from Patagonia 1 (Lamb festival)
アルゼンチンをゆっくりと南下し、パタゴニア地方へ。
プエルトマドリンという町では羊祭がおこなわれていた。
アルゼンチンはなんといっても牛肉だが、パタゴニアは羊料理で有名である。
ラムチョップ大好きなぼくとしてはマストイートである。
Cordero=Lamb=羊
おお、おいしそう。
アルゼンチンのフォークロリック(民謡音楽)や踊りもみれた。
南のおじちゃん達はハンチングキャップのような帽子を善くかぶっていてお洒落だ。
メイン会場(大きなテント)の方へ歩いていくと、なにやら煙といい匂いが。
調理場にお邪魔させてもらった。焼きあがった羊のお肉・・・いい匂い(ヨダレ)。
いい感じのおじいちゃんが、「ほれ、味見してみろ」っとひとかけら口に押し込んでくれた。
これがトロトロジューシー。羊は脂身と一緒に食べるのが美味しいんぞ、と教えてくれた。
「遠火で強火」で焼くんだよとおじいちゃんが教えてくれた。そしてゆっくりゆっくり時間をかけて焼くのがいいらしい。
会場の反対側でも腹をすかせたお客の為に焼かれていた。ここでもたくさん羊さんたちがコンガリ。
アサドール(焼き係り)は日本でいう鍋奉行のようなものか。
子供もベンチに座って羊さんたちが焼けるのを見学。羊好き?と聞くと、「うん」といっていた。
50peso/person(All you can eat lamb for US $13) 1200円で羊肉食べ放題。なんとサラダ、飲み物、デザートもついている。これはお得だ。
このお肉がトロットロ。手でそのままかぶりつくと、お肉のジュースと脂で手がすごいことに。
パタゴニアの羊はまったくといっていいほどクサミがない。羊達が食べているパタゴニアの牧草がこのお肉をこんなに美味しくしてくれているそうだ。
Monday, March 15, 2010
ベッドメイキング
ぼくは旅の宿で朝目が覚めると、なによりも先にベッドメイキングをする。シーツの皺をのばして、布団を一枚一枚はがして、もう一度一枚一枚しいて、枕の形を正すと、なぜか途方もない安堵感に包まれる。その理由を尋ねるべく、おぼろげな記憶の残滓を眺めていると、小学校の夏休みに行ったカルバーという軍隊のキャンプの日々がぼんやりと遠くに蘇ってくるのだ。横浜の実家に帰ってもミジンコ程もやらないことを、旅先のドミトリーという共有スペースに入った瞬間、奇妙なスイッチが入り、当時の習慣が復活するのである。
インディアナ州に、キャンプカルバーという軍人育成学校がある。通常の学校以外にも夏休みに子供達を鍛え上げる軍隊のサマープログラムがあり、海兵学校はウェストポイント、陸軍学校はカルバーといわれるほど軍の学校では厳しくて有名で、勉強、スポーツ、規律、集団行動、サバイバル術などを小学校低学年から高校生までを対象に教えている。そんなことを知るはずもない当時のぼくは、ただ単に夏休みは家から出たい、というだけの軽い気持ちで、「小さい子には旅をさせろとことわざ辞典に書いてあった」と、わけのわからない文句を言って親に頼み込み、わざわざミシガンからインディアナの学校へ行かせてもらったのである。
カルバーでの生活は厳しさを極め、そして目が回るほど忙しかった。朝はラッパとともに6時30分に起床し、午前は行進と勉強、午後は敬礼とスポーツ、夜は旗取りゲーム、演劇、アメリカの歴史勉強会、カウンセリングなど、アクティビティーでいつもいっぱいであった。毎朝ラッパ演奏5分後にインスペクター(監査官)が入ってきて部屋をすみからすみまで点検する。トイレの水滴から部屋の埃、ベッドの皺までの全てが検査の対象である。この時間はインスペクションと呼ばれていた。部屋は12人部屋で、全てのこども達はインスペクターが入ってくるまでに制服に着替えて、身だしなみを整え、ベッドの皺を「ピン」と地平線のようにのばしておかなければならない。そして2段ベッドの前に二人ずつ整列し、厳顔なインスペクターが順にベッドの点検へとまわってくるのを固唾を呑んで待つのである。インスペクターが各々の前に立つと、こども達は、踵を整え、最敬礼し、自分たちに与えられた7桁の番号を朝の挨拶とともに暗誦しなければならない。部屋が少しでも汚れていれば全員が減点、身だしなみ、ベッドの皺、布団の畳み方、番号・挨拶、などいずれを間違えても減点され、-5点で半日トイレ掃除、もしくは1日皿洗いの刑に処されるのである。当時、英語がまったくといっていいほど喋れなかったぼくは、友人に朝の挨拶を一字一句書いてもらい、その呪詛のような異国の言葉を行進の最中でも敬礼の最中でも何度も頭の中で反芻したのを覚えている。インスペクションで、自分の番がまわってくるまでは、心臓の音しか聞こえないほど緊張した。昔から、緊張すると、極端に手の平が汗で濡れるので、何度もお尻で汗を拭いた。ぼくは少しずつ近づいてくる呪詛暗誦の恐怖と、人の前で試されるという苦痛をこの時はじめて覚えたのだと思う。
ぼくたちの部屋で、英語をうまくしゃべれない子供はぼく以外にもいた。インド人の子が一人(ぼくのベッドの下段)、メキシコ人の子とプエルトリコ人の子が二人(隣のベッド)であった。インド人の子はわりと話せたが、メキシコ人とプエルトリコ人の子はぼくと同じくらい話せなかった。他の子たちはアメリカ人で、黒人の子が二人と白人の子が6人いた。この時横で寝ていたメキシコ人とプエルトリコ人の二人のピロートークを毎晩意味わからずも聞いていて、はじめて耳にしたスペイン語という言語の響きのよさに感心したのを覚えている。プエルトリコ人の子は、将来軍人になってアメリカの国籍を取得し、お父さんお母さんを養ってあげるんだ、とぼくに身振り手振りで教えてくれた会話は今でも忘れられない。
夜になると、部屋中の子ども達がよく泣いていた。厳しく、次の日の朝がいやになって泣いてしまう子や、ホームシックにかかり泣いてしまう子がたくさんいた。途中精神的に辛くなり、脱走してしまう子や、キャンプから家に帰ってしまう子もいた。しかし、ぼくはホームシックというものがよくわからなかった。お父さんやお母さんに会いたい、と言ってみんな泣いていたが、ぼくはようやく家から抜け出せたという気持ちのほうが強かったのだ。唯一恋しかったのは、家で食べていたソーセージ入りのサッポロ一番みそラーメンと大好物の揚げ餅だけであった。夜中になってシクシクという音がしだすと、ぼくは下段のベッドで寝ていたインド人の顔を覗いて目を合わせ、ぼく泣いてないよ、とよく確認しあっていた。
寝る時にも次の朝をむかえる配慮が必要だった。ベッドを目一杯乱して寝ると朝のベッドメイキングにどうしても時間がかかってしまう。2段ベッドの上段で寝ていたぼくはなるべくシーツに皺をよせないようにして、掛け布団をはがさず、別にもっていたタオルケットをかけて、形をくずさないようにまるまって寝ていた。そうすれば朝ラッパが鳴った瞬間、ベッドから飛び降りて、ただ手で皺を伸ばせばいいだけだからである。
こんな遠い過去の自分を、ベッドのシーツから思い出したてしまった。
Wednesday, March 3, 2010
マリアのこども達
イグアスからバスでアスンシオンへと向かう途中、パラグアイ人の知り合いの家に一泊させてもらい、マリアという小さな村の学校を訪れた。カトリック系の学校で、シスターが校長先生を務めている。学校がはじまる時間に挨拶をしにいくと、シスターが、「今日はなんだかとてもいい出会いがあるんじゃないかって、朝起きた時そんな予感がしたの。あなただったのね。」と不思議なことを言って歓迎してもらった。キッと厳粛な眼をしているが、笑うと魂そのものが笑う人だ、と思った。恥ずかしいから写真はダメよと言っていた。
早朝の学校。もうこども達が来ている。
おはよう、とみんなが挨拶をする。パラグアイは子供も大人も本当によく挨拶をする。
朝の朝会。
シスターに、せっかく来たんだから、なにかこども達に教えていってあげてね、と言われ、悩んだあげく午前中の間に準備をさせてもらることに。教員室にある材料を色々みさせてもらい、・・・・ポクポクポクポクポク・・・。コーヒー用のコップと、図工のクラスであまった糸があったのでこれで糸電話をみんなとつくることに。
4時間目の授業。最初に自己紹介をしてから、今日の授業の内容を説明し、どうやって作るかを絵で説明。担任の先生が手伝ってくれてよかった。
みんな、「えー?これで本当に聞こえるのー?」と。ぼくもドキドキ。聞こえますように。
こども達はぼくより器用。思ったより早く出来ていた。
さっそく出来た子供たちは外にでて実験。聞こえるかなあ?
Hola?Me escuchas?(ぼくのこと聞こえる?)と確認しあう。
質問をお互いしあって、ちゃんと聞こえているかを実験する。
あー。
どうやらちゃんと聞こえているようだ。
糸が交差した時は聞こえるか、糸が絡まったときは聞こえるか、という実験もしてみた。
実験うまくいった?とぼくが電話ごしに聞くと、SI!(うん!)と元気よく答えてくれた。
みんな学校が終っても、糸電話で遊んでくれていた。
ブラブラしてると、こども達が話しに来てくれる。
放課後、中庭に集まる子供たち。
夕方になりお別れの挨拶をしに校長室へ行くと、テレレとクッキーをご馳走に。子供達のことや1日のことをおしゃべりしてから、さよならを言うと、帰り際に、「あなたがいい人生を歩めますように。」とお祈りをしてくれた。ぼくは、これは日本風にお辞儀をするのがいいと思ったのでそうしてみたら、シスターがとてもおかしそうに体を揺すって笑っていた。やっぱり、この人が笑うと魂そのものが笑っているようだ。ソウルフルなシスターだなあと思った。
日曜日のラーメン
学校で先生やこども達と話していると、「潤さん日曜日はラーメンの日ですよ、絶対食べていってくださいね」と強く勧められた。帰ってさっそくオサムさんに聞いてみると、週末だけ営業する美味しいラーメン屋さんがあるから是非明日食べに行きましょうと誘ってもらい、次の日の日曜日のお昼に連れて行ってもらった。場所は中心から徒歩5分。普通の家の一室をお店として使っている感じで、外には看板も何も出ていないので、教えてもらわないとこりゃあわからない。
ラーメン(15000グアラニー=約300円)、手作りのプリン、あずきアイスも絶品だとか。
餃子(6000グアラニー=約120円)、お寿司(15000グアラニー=約300円)やおにぎりも(5000グアラニー=約100円)。オサムさんが、潤くんは大盛りでしょ?というので思わず「ハイ!」と言ってしまった。
注文から約10分。ラーメンの完成。
オサムさんが、これも食べようと注文してくれた。涙で餃子がかすんで見える。
では、いただきます、と合掌していただく。
食べてみると、スープはさっぱり醤油。でもコクがある。そしてなんと麺にコシがある。うーん、本当に久しぶりに本物のラーメン。日本では普通にある味かもしれないが、海外でこの味はなかなかありつけない。なんて貴重な一杯。 神様!仏様!と大きい声でうなったりよじれたりしていると、厨房の奥からおばちゃんたちが笑いながら顔を出してきた。
おばちゃん仲間で2008年の1月からはじめたこのラーメン屋。すでにイグアスの有名店。この麺になるまで何年も試作を重ねてきたのよ、と今のラーメンになるまでの道のりを教えてくれた。
ほぼ毎週娘さんたちを連れてきてるよ、とオサムさん。
このプリン、濃厚極まりない。みんなが生卵で食べている地鶏の卵を使用。(興奮していてピントが・・・。)
プリンをなんとか食べ終えると、オサムさんが、小豆アイスも食べないとだめだよ、とすかさず注文。小豆なんて何年振りだろう。
オサムさん、イグアスでは本当にお世話になりました。
久しぶりに食べるラーメンって美味しいなあ。
Yguazu
ピラポを旅立つ際、ピラポ日系人会事務局のミノルさんに、イグアス移住地にまだ行ってないんだったら弟がそこにいるから少しよっていくといいよと勧めてもらい、2日ほどお邪魔させてもらった。
イグアスに住む、佐藤ミノルさんの弟さんのオサムさん。ミノルさんに似てるので、会った時に、すぐわかった。
イグアス移住地の中心にたつ鳥居。
町中には記念の石碑。
パラグアイと日本の友情が描かれた碑。
イグアスの名物である太鼓工房。
太鼓をつくる職人さん。
休憩中の職人さん。暑い日の休憩にテレレをまわして飲むのはパラグアイ式。
太鼓をつくるための素材。
倉庫でねかされている太鼓。
惚れ惚れと見入ってしまう。
イグアスはピラポとは違い、旅人が多く訪れる町である。イグアスの滝が近くにあり、町中には何件か日本人の宿もあるので、町中では旅人をよくみかけた。
おばちゃんと若者が軟式テニスを楽しんでいる。
ピラポでも親しまれているパークゴルフというスポーツ。ボールは大きいが、コースの距離が短く、初心者でも気軽に遊べる。
カコーンという音が気持ちよい。
オサムさんの娘さんのユイちゃんとアスカちゃん。町のあちこちへ連れまわしてくれた。
夕方はユイちゃんの太鼓の稽古へ。(太鼓工房の隣で)
太鼓の音は、町中に響くほど大きい。
音にはどこか、緊張感がある。
舞いながら太鼓を打つ。
先生もみんなと一緒に。
ドーン、というつきぬけるような音。
2時間ほどの稽古でみんな汗をたくさんかいていた。
妹のアスカちゃんは夜にバレーボールの練習。
夜11時に全ての稽古が終って、晩御飯。オサムさんが養豚している豚をご馳走になった。
次の日はアスカちゃんと一緒に日本語学校へ。
朝会に校歌と卒業式の歌の練習。
小学2年生のクラス。
校舎(正面)。
少し離れた別の校舎では、高校生の授業が。
日本語の授業の一環で、日本の高校とメールで文通をしている。
農協の二階には、移住当時の写真が展示されていたのでみせてもらった。
移住した若者達が団欒している写真。
家族が集まってお正月を祝う様子。
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