丘を降りていると、下の方から賑やかな声が聞こえてきた。なんだろうと近づいてみると、丘の麓に一つの学校を発見。門のあたりをウロウロしていると、中の人に導かれ校長先生に会うことができた。学校を見学してもいいですかと聞くと、写真は撮ることはできないけど、思う存分学校を見学して子供たちと遊んでいってちょうだいと言ってくれた。それからどうしても写真が撮りたかったら、学校の外で体育の授業をするから、その時ならいいわよと許可をくれた。
ここの学校は600人と非常に多く、先生もそれに対し90人いる。一人の先生が丁寧に案内をしてくれて、1年生から6年生の教室をくまなくみせてくれた。教室に入るたびに、驚かされたのは、どこの教室にもカストロやチェ・ゲバラ、シエンフエゴスといったこの国の英雄たちの絵や写真が貼られていること。(他の学校でも同じだった)そして先生のかけ声で子供たちは即座に反応し、"Anivarisario de 50 años de educacíon en revolucíon" (革命50周年記念の教育)と一斉に唱えるのである。教室は全て20人かそれ以下におさえられ、先生は授業によって一人か二人になる。食事は食堂使用料一ヶ月7peso(28円)をのぞいては全てが無料。この日はご飯に豆、トマトの野菜、鳥肉、牛乳、パンなどが用意されていた。全員制服着用が義務付けられ、制服も8peso(32円)で配られる。生徒は午前と午後の二つの時間帯を選択でき(中南米の多くの学校と同じ制度)、朝の6時半~18時まで授業がおこなわれている。コンピュータールームもあり、インターネットは国が認めていないため、タイプの練習、操作の学習が主なようだ。図書館は異様に本が少ない印象だった。(本棚が二つだけ)もともと情報規制の厳しい国ということもあって、国が認めた本のみを置いているようだ。
案内をしてくれている先生が、体育の授業がはじまったから遊びにいきましょうと提案してくれた。ぼくたちは授業に走りこむように参加させてもらうと、先生も子供たちもはじけるような笑顔でむかえてくれた。そして「チーノ!ハポン!オーラ!どこから来たの?!遊ぼう!野球やろう!」と思い思いの言葉を投げかけてくれるのである。ぼくはうれしさのあまり頭が真っ白になり、ただただみんなに手を振って挨拶することしかできなかった。みんなはじめて間近にみるぼくのようなアジア人をジッと見つめてくるのである。授業中もチラチラとぼくを横目でみていて、なかなか集中できないので先生たちには申し訳ないと思った。そして授業が終ると子供たちはまた集まってきて様々な質問をしてくるのである。旅をしていてこのように子供たちに出会える瞬間にぼくは静かな喜びを感じている。そしてぼく自身が、この出会いという不思議な人の行為に導かれているのだと思う。
昔、父と母と車でメキシコの国境を訪れた時のことを思い出した。ある一つの線を境に、人の言葉がかわり、食べ物がかわり、国の名前がかわる。どこまでも続く同じ大地なのに、すぐ目の前でアメリカがおわり、そこからメキシコがはじまるという事実が不思議に思えてならなかった。陸であっても、空間であっても、境界に立っていることほど、緊張と神秘に満ちたものはない。そして出会いとはその境に立つような行為ではないだろうか。子供はぼくがその境の近くに立つと、必ずといっていいほどむこうから近よってきて、話しかけてくれるのである。彼らがこの境につくる壁は、ぼくのつくるそれよりもはるかに低く、鳥のように自由である。金持ちだろうと、貧乏人だろうと、日本人だろうと、キューバ人だろうと、彼らにとってはあまり関係のないこと。彼らはあらゆる属性を無視し、出会ってれるのである。
授業が終わり、校長先生に挨拶をしにゆくと、生徒たちがぼくに絵をプレゼントしてくれたらしく、旅の思い出にと渡してくれた。彼女は「この学校を訪れた外国人はあなたで三人目。最初はスペイン、次はカナダから。そしてあなたがはじめての日本人。みんなとても喜んでいたわ。遊びに来てくれて感謝してる。本当にありがとう」と、気持ちのいい握手をしてくれた。
つづく