Sunday, July 5, 2009

Ganesh

Regresé a mexico!
Mi amigo Ganesh.
Juliosan dice que el entiende casi 40 palabras. Es un perro muy inteligente.
siempre me pide algo para comer.
zzz
Nos vemos Ganesh. No comas demasiado y haz tu ejercicio!

Tuesday, June 16, 2009

キューバの写真⑥

~シエンフエゴ~ 海辺の町、シエンフエゴ。 インフルエンザのおかげでこの町には少し長く滞在。 日中40度近くまであがり、太陽がギラギラと強いので、坊主のぼくは毎日帽子をかぶっていた。 海に飛び込む子供たち。 砂遊びを楽しむ子供たち。 どれくらいまで高く跳べるか競っていた。 シエンフエゴの市場。 海辺で仲良くなった少年。 船を浮かばせて遊んでいた。手の込んだ、よくできた船だ。 彼と1日町を歩いてま わり、オバケが出るというお墓まで連れていってもらった。 メイデーの日はキューバ全土がお祭りだった。この町もお店は全部しまり、広場にたくさんの人が集まっていた。 パレードの様子。 カストロさんのパネル。 大きな広場が人でいっぱい。 音楽がかかると即座に反応して踊るのがキューバ人。 高校生たちでもサルサがすごくうまいので感心してしまう。4人一組で踊っていた。 チェゲバラの帽子をつくる工場。みんなミシンで丁寧につくっている。 町の公園にオバケのような木を発見。子供たちが木にぶら下がって楽しそうに遊んでいた。 キューバでは毎朝マンゴーを食べていた。とにかく甘くてジューシー。

Friday, June 12, 2009

キューバの日記⑥

~ハバナへの戻り~
 外国人は外国人用のバスを使用することを国から義務付けられているが、旅の途中で「トラック」という格安の手段があることを知った。(トラックは乗る時にパスポートをチェックされない) これであれば1000円の旅が30円という目が飛び出るような値段におさえられる。難点は、多くのトラックが早朝4時~6時に出発するということ。トラックとトラックドライバーの調子によって出るか出ないかその日の朝に決まるということ。トラックの荷台に50人ほどトコロテンのように押し詰められ、ペチャンコになってしまうこと。そしてスリや泥棒が多い事、などである。 実際乗ってみると、なんとキューバ人ですら自分のバッグをわが子を守るように抱きしめている。そして、ぼくも彼らを見真似、ザックを足に絡ませ、手荷物は常に腹に抱え、隅に素早く身を沈め、忍者のように気配を消しながら旅をしていた。こんな状況で4~5日旅をしていると、かなりの気力と体力を消耗する。さらに50人近くひしめく乗客の体温で、空気が歪むほど気温が上昇する。まるでこれから牢屋にでもおくられるような、鬱屈とした気分になる。
 トラックが出なかった時は、来たときと同じように列車も使った。前にも書いたように、列車の旅では切符を購入するのが至難の業だ。駅の切符売り場へと足を運ぶと、長蛇の列がうねり駅の外までゆうに飛び出している。恐る恐る、みんなどれくらい待ってるのかと聞くと、「3時間」と力なく答えるのである。どうにかならないものかと一人の係員に聞いてみると、外国人はそこのカウンターで別に登録して買うんだ、と特別カウンターのようなところへと連れていかれる。しかしここでもカウンターのおばちゃんはどうやらお昼ご飯を食べに行ってしまったようで、ゆっくり2時間待たされる。そして戻ってくるなり他の職員と世間話をしながらタバコを一本くゆらせ、気分が整いしだい作業開始という調子なのだ。この国では、ほぼ全職が国の職員である為、サービスなどという言葉は存在しない。そしてそれに国民も慣らされてきたのか、みな恐ろしいほど辛抱強い。文句を言いつつも、時がくるまで岩のようにじっと、頑強に待つのだ。
 キューバではキューバ人のような行動をとろうとすると、とにかく「待つ」必要がある。ぼくが今まで生活してきた環境ではTime is moneyとよくいわれてきたが、キューバでは特にTimeはMoneyではないのである。

Tuesday, June 9, 2009

キューバ写真⑤

~カマグエイ・サンタクララ・トリニダの写真~
キューバではじめて見つけた大きな市場。買い物客でにぎわっていた。
キューバはAjedrez(チェス)がとっても盛ん。子供たちも遊んでいる。
サンタ・クララのチェゲバラ記念碑。軍人たちが軍の研修でたくさん訪れていた。
町を歩くと、壁に色々なプロパガンダをみる。
キューバの最も有名な観光地トリニダ。コロニアル調の町並みは歩いていて気持ちがいい。
トリニダの町。教会の上から。
町の中心。
丘の上に見つけた古い教会跡地。
キューバは道で売られている代表的な食べ物はハンバーガーとピザだが、ごくたまにフィッシュバーガーが売られている。一つ20円。サクサクしていてとても美味しい。久しぶりに違うものが食べれるというのは嬉しいかぎりである。
町に市場がないので、行商が野菜を売りに来る。この人はオクラとマンゴーを売っていた。オクラは一束12円。マンゴーは一つ大きいので8円。
キューバではどんな小さな町でも売られているピザ。一枚20円。大抵その場で焼いてくれて上にトマトソースとチーズが少し乗っかっている。ダンボールの切れ端か本の一ページを破って、包んで渡してくれる。
チェスを楽しむ店。
働け、と宣伝するポスター。
整理整頓・規律をもって働け、というポスター。
引退をしてしまった今でも、彼の人気は衰えることを知らない。最近は新聞に執筆活動をしている。
トリニダの子供たち。
民宿のオーナーのローランドさん。とってもあたたかい人。
トリニダではこの時期になると毎日夕方にスコールが降る。
そして子供たちは雨が降りだすと喜んで外に飛び出てくる。
みんな本当に楽しそうに雨の中で遊んでいる。
犬はびしょ濡れで雨宿りをしていた。

Wednesday, June 3, 2009

キューバの日記⑤

~オルランドさんの話~

チェ・ゲバラ縁の町、サンタ・クララ。ここで泊まった宿のオーナー、オルランドさんと親しくなり、こんな過去の貴重な話を聞かせてもらった。

来月娘さんの結婚をひかえている。娘さんとオルランドさん。

「貧乏にも色々あるけど、お金が意味をもたない、物のない貧しい社会っていうのがあるんだ。ジュン、あの時ほどキューバにとっても、国民にとっても辛い時期はなかったよ。 革命戦争が終ってから、キューバはソビエトに頼って30年間生きてきてしまった。ソビエトに砂糖やニッケルを売って、彼らから石油・ガソリン・車・食べ物、ありとあらゆるものをもらっていた。だけど1991年にソビエトが崩壊してからはそれも全て届かなくなってしまった。石油がなくなるってことはどうなるかわかるかい?ぼくたちは国として石油もとれないし何も生産していなかった。まずガスと電気をとめられてしまったよ。そして政府は1日5時間だけぼくたちに電気をまわしてくれると約束した。でもその電気もいつくるかわからないんだ。昼かもしれないし、夜かもしれない。だからみんないつも電源をつけておいた。そうするといつ電気がくるかわかるからね。時には朝の3時に電気が急につくんだ。その時は家族全員起きて洗濯をしたり、アイロンをかけたり、電気ジャーで野菜を煮たりして、電気で必要なことはその時にやったよ。でもね、電気がないのはまだなんとかなる。ないと大変なのは食べ物だよ。食べ物がないのは今の世の中ではなかなか想像できないかもしれないだろうけど。みんなお金はあるのに買うものがない。1日に1回、なければ2日に1回、配給のベルが公園で鳴るんだ。そうするとみんなカルネ(身分証明書)をもってすごい列に並んだよ。夜中の12時1時でも。1時間、2時間並んで1人ハンバーガー1個しかもらえない。あの時はいつも腹が減って。今なんか、いつでもハンバーガーもピザも買える。種類は少ないかもしれないけど、ものを欲しい時に買えるうれしさっていうのはこの時の経験があったから痛いほどよくわかるんだ。」

ぼくはオルランドさんたちの当時の生活を想像しながら、彼の言葉を反芻していた。人の過去の辛い体験談には、多くの場合、輝かしい成功話にはない人生の含蓄と示唆に溢れている

つづく

Thursday, May 28, 2009

キューバの日記&写真④

~エル・コブレの子供たち~  サンティアゴの町から20kmほど離れたエル・コブレという村を訪れてみた。何気なく訪れてみたこの村は、山羊や馬がたくさんいるのどかなところ。緑が多く、村の中心に小さなかわいらしい教会が一つあり、人々はその周りに集まり生活をしている。 小さな丘があったので登ってみると、頂上は見晴らしがとてもよく、清々しい落ち着きがあった。
 
 丘を降りていると、下の方から賑やかな声が聞こえてきた。なんだろうと近づいてみると、丘の麓に一つの学校を発見。門のあたりをウロウロしていると、中の人に導かれ校長先生に会うことができた。学校を見学してもいいですかと聞くと、写真は撮ることはできないけど、思う存分学校を見学して子供たちと遊んでいってちょうだいと言ってくれた。それからどうしても写真が撮りたかったら、学校の外で体育の授業をするから、その時ならいいわよと許可をくれた。
 
 ここの学校は600人と非常に多く、先生もそれに対し90人いる。一人の先生が丁寧に案内をしてくれて、1年生から6年生の教室をくまなくみせてくれた。教室に入るたびに、驚かされたのは、どこの教室にもカストロやチェ・ゲバラ、シエンフエゴスといったこの国の英雄たちの絵や写真が貼られていること。(他の学校でも同じだった)そして先生のかけ声で子供たちは即座に反応し、"Anivarisario de 50 años de educacíon en revolucíon" (革命50周年記念の教育)と一斉に唱えるのである。教室は全て20人かそれ以下におさえられ、先生は授業によって一人か二人になる。食事は食堂使用料一ヶ月7peso(28円)をのぞいては全てが無料。この日はご飯に豆、トマトの野菜、鳥肉、牛乳、パンなどが用意されていた。全員制服着用が義務付けられ、制服も8peso(32円)で配られる。生徒は午前と午後の二つの時間帯を選択でき(中南米の多くの学校と同じ制度)、朝の6時半~18時まで授業がおこなわれている。コンピュータールームもあり、インターネットは国が認めていないため、タイプの練習、操作の学習が主なようだ。図書館は異様に本が少ない印象だった。(本棚が二つだけ)もともと情報規制の厳しい国ということもあって、国が認めた本のみを置いているようだ。  案内をしてくれている先生が、体育の授業がはじまったから遊びにいきましょうと提案してくれた。ぼくたちは授業に走りこむように参加させてもらうと、先生も子供たちもはじけるような笑顔でむかえてくれた。そして「チーノ!ハポン!オーラ!どこから来たの?!遊ぼう!野球やろう!」と思い思いの言葉を投げかけてくれるのである。ぼくはうれしさのあまり頭が真っ白になり、ただただみんなに手を振って挨拶することしかできなかった。みんなはじめて間近にみるぼくのようなアジア人をジッと見つめてくるのである。授業中もチラチラとぼくを横目でみていて、なかなか集中できないので先生たちには申し訳ないと思った。そして授業が終ると子供たちはまた集まってきて様々な質問をしてくるのである。旅をしていてこのように子供たちに出会える瞬間にぼくは静かな喜びを感じている。そしてぼく自身が、この出会いという不思議な人の行為に導かれているのだと思う。  昔、父と母と車でメキシコの国境を訪れた時のことを思い出した。ある一つの線を境に、人の言葉がかわり、食べ物がかわり、国の名前がかわる。どこまでも続く同じ大地なのに、すぐ目の前でアメリカがおわり、そこからメキシコがはじまるという事実が不思議に思えてならなかった。陸であっても、空間であっても、境界に立っていることほど、緊張と神秘に満ちたものはない。そして出会いとはその境に立つような行為ではないだろうか。子供はぼくがその境の近くに立つと、必ずといっていいほどむこうから近よってきて、話しかけてくれるのである。彼らがこの境につくる壁は、ぼくのつくるそれよりもはるかに低く、鳥のように自由である。金持ちだろうと、貧乏人だろうと、日本人だろうと、キューバ人だろうと、彼らにとってはあまり関係のないこと。彼らはあらゆる属性を無視し、出会ってれるのである。
 授業が終わり、校長先生に挨拶をしにゆくと、生徒たちがぼくに絵をプレゼントしてくれたらしく、旅の思い出にと渡してくれた。彼女は「この学校を訪れた外国人はあなたで三人目。最初はスペイン、次はカナダから。そしてあなたがはじめての日本人。みんなとても喜んでいたわ。遊びに来てくれて感謝してる。本当にありがとう」と、気持ちのいい握手をしてくれた。
つづく