Wednesday, October 19, 2011
情報の境界線
最近日本をチビチビとだが旅していて、感じることがあった。 それは都市と田舎の人間の、自然の捉え方についてだ。 たとえば都会の人々にとって陸は陸であり、空は空であり、そして海は海以外のなにものでもないわけだけれども、田舎の人々の中では、陸も空も海もその境界を消し、溶け合っているような感覚がどうもある。
この前、京都の居酒屋で釣り好きのいい感じの老人と知り合い、こんな話をしてくれた。彼が住む近くの丘が花で満開になると、どこどこの岬でスズキが釣れるだとか、あそこの山の緑が濃くなってきたらキビレという魚がつれ始めたりするのだという。ぼくは釣りをやらないが、毎日地元で釣りをする人にはそういった自然の変化は見落とせない情報なのであって、彼らにとって最も正確なビジュアルカレンダーであるに違いない。
能登につい先週お邪魔したときも、似たような話を耳にした。「千振という薬草が咲くと松茸がはえる頃合。」「柚子がなるとその年は大雪が降る。」 当たる当たらないは別にしても、古来からの自然の言い伝えというものには、この大きな自然の呼吸の輪の中に人間もいさせてもらっているという謙虚な姿勢が見え隠れする。 都会のように情報を、海ならば海、山ならば山と、脳が理解しやすいように小さく分断し、またそれら一つ一つを丁寧に足していったものが自然だろう、という短絡的な捉え方はいささか間違っているように思う。
学生時代、イギリスの田舎を旅した時、地元のおばあさんにとても響きのいい諺を教えてもらったことがある。
"Red sky at night shepherds delight." (夕焼けは羊使いの喜び。)
夕焼けは晴れの兆し、という言い伝えだ。 古代から田舎の人々が、さまざまな自然に境界線をつくらず、それをひとつのトータルなものとして俯瞰することができたのは、彼らが空も陸も海もあらゆる万象は、緊密な連関の中に息づいているというきわめてエコロジカルな感性をもつことによってはじめて生きることが可能だったからではないだろうか。
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